手紙★★★☆

泣かせ本??

 手紙 (文春文庫)東野圭吾のベストセラーの文庫化である。NHKでドラマ化されたほか、現在映画が劇場公開中。同僚のAさんから借りて、一気に読みました。
 ちなみにAさんは、とても涙もろい。以前、出社したAさんの目がやたら腫れているので、どうしたのか訊いたら、前日放送していた「蛍の墓」をつい見てしまい、大泣きしてしまったとのこと…。そりゃあ、あれを泣かずに見られる人は相当人間離れしているとは思うけど、何も泣き腫らさなくとも…!で、そんなステキな(?)Aさんが、またしても目を腫らせてしまった、というのだからこれは読まないわけには行かない。

胃が重くなる小説

 僕は、そもそも主人公がイジメられるドラマの類が大嫌いだ。ドラマであっても、理不尽なイジメなんかを見ると、いたたまれなくなってしまい、途中で投げ出してしまうのだ。この小説は、兄が強盗殺人を犯してしまったがゆえに罪の無い弟が周囲から受ける差別や仕打ちと、弟の葛藤をひたすら描いているわけで、進んで手に取るタイプのものでは決してない。それでもこれを読んだのは、Aさんのオススメだからというだけでなく、以前放映していたNHKのドラマが、途中から見たにもかかわらずとても心に残っていたからである。原作はどんなものか興味があった。

「世間」の厳しさ

 東野圭吾の小説だから文章は平易なのだが、テーマがテーマだけに、胃のあたりにひどく重たいものを抱えながら読み進んだ。
 主人公が受けることになる様々の差別は、就職や結婚にまつわるような、ある程度予想のつくものではあるが、それを立て続けに描かれると、さすがに読んでいてとても辛いし悔しい。世の中は確かにこんなものだろう、と思わせる。そして、作者の狙いなのかもしれないが、自分ならどうするだろう、と何度も自問しながら読んだ。例えば、娘が連れてきたボーイフレンドが、強盗殺人犯の弟だったら、僕は素直に祝福できるのだろうか。
 Aさんと違い、号泣することはなかったが、それでも最低3回は涙腺が緩んでしまった。どっちかというと、悔し涙に近いものだったかもしれない。

作者の描きたかったものは

 しかし、何となく、小説のコンセプトに割り切れないものが残ったのも事実だ。
 作中、どちらかというと彼の理解者として登場する人物が「差別は当然だ。我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる。すべての犯罪者にそう思い知らせるためにも」という意味のことを言い、主人公がある種納得するのだが、果たしてそうなのか?作者はそこにひとつの結論を述べようとしたのではないのか。また、ラストで語られる「手紙」にまつわるエピソードについても、これがおそらく小説のタイトルが「手紙」たる最大の理由なんだろうけれども、いまひとつ腑に落ちなかった。作者が描こうとしたのは、何なのだろう。
 もちろん、作者は別段ひとつの結論を示したわけではなかろう。こうした人と人との機微を、一つの例として描いたにすぎないし、むしろ作者自身が逡巡している姿を見せようとしたのかもしれない。でも作者自身、シリアスな小説と娯楽小説の狭間で、何だか消化不良なのではないか。
 ただ、僕は、こうした類の出来事に正解を求める発想自体に反発を覚える。もちろん、昨今のヒステリックなマスコミが「『世間』に対して申し訳ないと思わないのか」、とか「謝罪しろ」とか言うのを聞くたびに、「世間」って誰だ?ここで謝らせることに何の意味がある?といつも疑問に思っているヒネクレ者なので、その意味ではラストに納得行くのだが、だからどうしたというのだ。
 犯罪者と被害者のあいだに横たわる問題を周りが相対化することなど絶対にできない。反省がどうだとか、謝罪がどうだとかいうのは、本質的に極めてパーソナルな問題な筈だ。
 だから、この小説において、いろいろな立場の人間のいろいろな思いが描かれ、結果として読者がそれを自分の問題に置き換えて考えることがあるとしたら、それこそがこの小説の意味なんだろう、と、思う。