月の砂漠をさばさばと

実はブログのコメントから

月の砂漠をさばさばと (新潮文庫)
 北村薫の本を読んだのは、初めてである。そもそも、名前からして、女流作家かと思っていたくらいだ。
 実はこの本、僕のブログを読んでくれた方が、我が家の雰囲気がこの本に似ているとコメントを下さったので、手にしたものなのだ。連休に軽井沢で、なっちゃんが寝たあとひとりロビーで読みました。部屋に電気点けられないからね。
 読んでみての感想は、ひとことで言って、「ヤラレタ…」。ボキャブラリーが貧困で申し訳ないが、いちばんぴったり来る表現はまずこれかな。
 実は僕は、子どもの本や、子どもを描いた本は結構いろいろ読んでいる。何を隠そう、学生時代は、ウインドサーフィンサークルでの活動以外に、図書館で子どもに本を読み聞かせたりするサークルの代表をしていた経験があるくらいだ(もっとも、ハズカシイので皆にはナイショにしてたけどね)。ちなみに、カテゴリーを問わずいちばん好きな本を一冊だけ選べといわれたなら、今でも宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を挙げます。

子どもに媚びた本は嫌い

 さて子どもの本や、子どもを描いた本には、言い方は悪いが「子どもに媚びた」作品がたくさんある。簡単に言うと、子どもはこういうものだ、と思い込んだ大人の視点で書かれた本だ。時として巧みに、「子どものことをわかっていない大人」を描いたりするのだが、その描き方そのものが既にある種の媚びを帯びていることがままある。この手の本に出くわすと、正直げんなりするんだなあ。その意味では、好きな作家の一人である重松清氏の小説も、そうした「媚び」と無縁ではない。泣かせる本が沢山あるのだが、何というか、非常にコマーシャルな匂いがするのだ。

空気感が伝わる小説

 ところが「月の砂漠をさばさばと」には、そうしたイヤな匂いがしないばかりか、子どもとお母さんの心の小さなひだが驚くほどリアルに、それでいてやわらかく描かれていて、驚いてしまった。読んでいてしばらくは、女性作家だと思い込んでいた理由はそこにもある。
 小さい子どもと親のあいだの空気感というのは、時として、文章にすると簡単に壊れてしまうようなはかなげな、デリケートなものだ。子どもはその貧困なボキャブラリーの中から、精一杯自分を表現しようとしているわけで、言いたいことすべてが言葉になって現れるわけでない。僕もなっちゃんとの間でそういう瞬間を経験するたびに、ああ、この感じを文章で残せたらなあ、と思うことがあるのだが、それはかなり困難な作業だと思う。少なくとも、コムロテツヤ的な、「毎日があ〜楽しくてぇ〜こんな日々がぁ〜続いてくぅ〜」とか「何かが始まるぅ〜気がしてぇ〜」みたいなアホバカ表現でストレートに表現できるようなものでないことは確かだ(ほとんど敵意を抱いてますね)。
 しかしこの小説集には、子どもとお母さんのふわりとした、それでいて濃密な関係が、時に涙を誘うほどに爽やかに描かれている。読んでいて何度も、「あるある感」にとらわれた(ボキャブラリーが貧困ですみません)。
 こんなふうに、親子関係を描けるということに、嫉妬してしまった。くそぅ。

感性が鈍ってますね

 ひとつ、ショックだったのが、ひとつ目のストーリーに隠された意味を、自分がよく理解していなかったことだ。作中の家族が母子家庭かな、ということに気付いたのは真ん中まで読み進んだ頃だったのだが、解説を読んで、ひとつめのストーリーの中の親子のやりとりの意味にはじめて気付いた。何ということだ…。アタマが固くなった証拠である。やはり、たまには小説読まないとダメですね。
 また機会があれば、他の作品にもトライしてみたい。
 ミナミさん、ありがとう。